自宅の隣人のお父さんから「先日の取材、終戦の日に特集として読売TVで放映されるようです」と連絡があった。名前は阿部順造さん(84)でシベリア抑留体験を持つ。
抑留の体験者だと知ったきっかけは、私が学生時代旧ソ連のみやげもの屋で買ったレコードを見せたときだ(クラシック音楽が好きな方である)「ああ、チャイコフスキーですか」とキリル文字(ロシア語の文字)を難なく解読したので「?」。聞いたところ、戦前満州に家族で満州に渡り、ひとりだけ16歳の旧制中学生4年の頃シベリアに連行され、・強制労働に従事させられたのだという。
どうして民間人の、しかも未成年の子どもがソ連に抑留されなければならなかったのか?話を聞く限り、どうも旧日本軍による「だまし連行」のようだ。脱走した日本兵捕虜の数合わせに使われたらしい。ほとんど‘拉致’ではないか。
阿部さんは終戦直後のことを振り返る。同級生らと寮で不安な共同生活をしていたとき、日本軍の将校がソ連兵とやってきた。「今から君たちを日本に連れて帰ってやる」。皆は大喜びした。
ただし、と将校は言った。「連れて帰ることができる数には限りがある。背の高いものから26人、それからもし途中で年齢を聞かれたら18歳と答えるように」。どうして年齢を偽らなければいけないのか、不審に思いつつも阿部さんはその中にはいることができた。26番目だった。小柄だった友人は精一杯背伸びをして、何とか「帰国組」の中にもぐりこんだ。これが運命の分かれ目だった。
26人を乗せ南下するはずの列車は、どんどん北に向かう。連れてこられたのはシベリアだった。零下30度の中、鉄道敷設のための強制労働に従事させられる。もともと体が弱かった友人はみるみる衰弱していった。最期に「梅干しのおかゆが食べたい」といって息を引き取った。体に栄養失調を示す斑点が広がっていた。大地は固く凍ってシャベルを受け付けず、春が来るまで遺体は地面に放り出すように置かれたままだった。
阿部さんの当時の話や、連れ去り将校の消息(まだ生きてた!)などは2010年5月25日クローズアップ現代『シベリア抑留 終わらない戦後』で詳しく放映された。
阿部さんは以前から日本政府に対し、抑留者に関する資料を開示するよう、活動を続けているが、この番組をきっかけにマスコミからの取材が増えた。中には「本人の都合・体力をちゃんと考えているのか?」と言いたくなるような電撃取材もある。が、阿部さんはできるだけこれらに応じたいという。
「私らが口を閉ざしてしまったら、戦争って美化されてしまいますからねぇ」一8月15日読売テレビ『Ten』(16:47‐17:50)で、阿部さんら中学生の「その後」が10分間の特集として伝えられるという。「美しい国、日本」がどんな凄惨な近過去で彩られているか、この時期、特に若い世代に知ってもらいたい。