ひょっとしたらそうなのかしら

約1カ月ぶりの更新だ。先月起きたおぞましい犯罪に想起されて書く。

 

罪を犯した女子高生が「僕」という自称詞を使ってたということが、いかにも彼女の異常性を表すかのように報道されていた。ただ、半専門家から言わせると、小説やアニメなどから影響を受けた思春期の少女が、「僕」を使用するのはそんなに特異なことではない。データは今手元にはないが、集団の中では一定の割合で表れるといっていい。

 

そういう私も、小学校の高学年の一時期、「僕」と自称していたことがある。いわば第二次性徴(保健体育で習ったなぁ)への反抗期というべきもので、変化を遂げつつある自分の身体と周囲の目への、ささやかな精神的抵抗であった。今後期待される女性としての社会的役割像が徹底的に気に入らなかったのだ。何せ70年代、専業主婦、良妻賢母の全盛期だったから。

 

中学になり「僕」という自称への圧力が高まっていくころ、、「寿司」「金」「酒」は99%以上の割合で女性は接頭語「お」をつけるというデータを見た。それからは「僕」を卒業、かわりにこれらの語にいっさい「お」を付けずに使用することにした。この習慣は今でも続いている。


「女ことば」によく出くわすのは翻訳本だ。「~なの」「だったのよ」「~かしら?」。明治時代発祥の女学生言葉が、恥ずかしげもなく並んでいる。イマドキ実際こんな言葉を使っている奴いるか?百歩譲って故・ダイアナ妃の伝記本ならいざしらず、これがビジネス書にも出現するのでたまげる。特に米語はジェンダーによる言い回しの差が少ないという印象が強いんだが。

 

ここ数年来、最も気になったのは『出現する未来』(‘06 ピーター・センゲほか)。著者の一人は女性だが、この人のセリフ部分がヒドい。「てよだわ言葉」のオンパレードである。訳者はフェミニストでもあると聞いているが…ひょっとして翻訳の「名義貸し」なのだろうか、という疑念すら湧いてしまうぜ。