論理性のはき違え

論理性(ロジカルである)とは何か。『考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式』という広辞苑の定義に異論を唱える方は少なかろう。

 

ただし、日常生活での行為や言動において「論理性がある」ことと「妥当である」ということは別だ。

 

日常生活と強調したのは、論理学でも「妥当である」という用語があるからだ。例を挙げると「タハラは哺乳類である。カエルは両生類である。(前提)」「ゆえにタハラはカエルではない(結論)」は、前提(正)→結論(正)なので「妥当である」。(ゆえにFBのアイコンでカエルを使用する私は、論理的に「妥当でない」行為をなしている?)

 

それはさておき「論理的じゃん」≠「フツーに妥当じゃないでしょ」という話に戻りたい。例えば「こんにちは」という言葉。これは「今日様(こんにちさま)」=太陽に呼び掛ける言葉だったとか、「今日は(よいお日柄で…)」といった話の枕の省略形であるとか、いろんな説がある。がとにかく意味をなさない、形骸化した言葉であることは間違いない。

 

そこに『筋道』を通すために言葉と行為の一致を追求したらどうなるか?「こんにちは」は、話相手ではなく常に太陽を見て言葉を向けるか、あるいは「こんにちは」に続く相手のセリフを待ちづけるか…単なる困りものである。ここは世の倣いに従い「こんにちは」と返すのが通例であろう(こーゆーのを言語学で`隣接ペア’という)。

 

論理性にこだわるあまり、妥当であることに目が向かず、単なる揚げ足取りになり果てる。ロジカルシンキングの習いたては、こうした傾向が出ることが多い。要注意だ。また、自称ロジカルシンキングのベテランでも、時々こういう人を見かける。自分が`賢い’と勘違いし、他人の言葉のアラさがしをして説教し、周囲の生産性を下げるのだ。こうした自己陶酔型の人とは、対話が成立しない。結果、人は離れていく。もったいない話である。