かつて「ポテトはよろしかったでしょうか」が、接客マニュアル敬語の代表格としてヤリ玉に挙げられたことがある。なぜいかがですかと言えない、間違った表現だという非難の声が世に満ち満ちたことは記憶に新しい(でもないか)。ただし、どうしてそれが不快なのかという冷静な議論は、俎上に乗らなかったように思う。
ここで改めてまとめてみる。「××は(〇〇で)よろしかったでしょうか」は「よろしかった」という過去形にポイントがある。店側の意向を断定して客に押し付けていることになるからだ。だから聞いた瞬間、客は「××ぐらいフツウ頼むやろ」「〇〇以外の選択肢はないんやけど」と言われたように錯覚、とカチンと来る。言語学でいうところのFACEの大侵害である。
そう、敬語が厄介なのは、相手の理性ではなく、感情に障るからなのだ。
「させていただく」でちらほら聞かれる不快感も、「感情」に由来する。この語については、実は2007年、政府の文化審議会『敬語の指針』よりわざわざ見解が出されている。それによると、
'ア)相手側又は第三者の許可を受けて行い,イ)そのことで恩恵を 受けるという事実や気持ちのある場合に使われる。したがって,ア) ,イ)の条件を どの程度満たすかによって 「発表させていただく」など 「…(さ)せていただく」を 用いた表現には,適切な場合と,余り適切だとは言えない場合とがある'
ちょっとわかりづらい文章だ。つまり翻訳すれば「『もったいなくも畏(かしこ)くも、こんな私がありがたや』が相手に素直に通じない状況では、ウザイと感じられるかもよ」。
「〇〇と入籍させていただきました」なんていうタレントの会見はウザイ典型例だろう。婚姻の自由は憲法24条で保障されている。誰に遠慮する義務もないので、敬語の対象となる相手は存在しないはずだ。ここは独裁国家か、とツッコミを入れたくなる。
ちなみに、再現可能で、さらっと聞き流してもらえない書き言葉はよりツッコまれる危険が大きい。慇懃無礼(=丁寧すぎてかえって失礼に聞こえること)の言葉にもあるとおり、過ぎたるはなお及ばざるがごとし。コトバ力を磨き、等身大の表現を選ぼう。
平成19年文化審議会答申 『敬語の指針』
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/sokai/sokai_6/pdf/keigo_tousin.pdf