うなづきの難しさ

先程から、原稿をまとめるためにインタビュー音声を聞き直している。

 

さっきから気になっているのは、インタビュアーである自分の口癖だ。相手の言葉を「そうですね」と肯定する文脈で「いえ」と否定語を口走り、内容を確認すべき場面で「ですから…」と、断定語を使っている。

 

そして、興味深いのは相手の反応だ。こうしたいわば、否定的、断定的な言葉の投げかけの後には、必ずレスポンスが遅れているのだ。ホンの0.数秒以下のタイミングだが、あきらかに言いよどみが見られる。

 

立て続けにそんな状態が発生しているわけではないので、対話自体はスムーズに流れている。ただ、こうしたやりとりが重なると、相手の心の無意識層に、「話の腰を折られたな」「強引だな」と、不快感が澱(おり)のようにたまっていくのではないか。

 

今をさかのぼる数十年前。漫才ブームの最中、相方の圧倒的なトーク力に押され、ただただあいづちとうなづきで追従するしかないツッコミ役がいた。3人集めて「うなづきトリオ」揶揄されながら、それなりに人気になっていた。。

 

確かに、たかがうなづき、されどうなづき。しゃべりまくる相方を鼓舞するのも凹ませるのも、うなづき一つで変わるのだ。漫才ブームが記憶のかなたに去り、M-1グランプリも17回目を迎えようとしている今、やっとあのトリオの存在意義を理解した私だった。

 

参考URL:「ですから」の一言が、ふつうのお客様をモンスターに変える

      ダイヤモンド社 書籍オンライン