「希望が、ゆきわたる国へ」

言わずと知れた●●党のポスターのキャッチコピーだ。個人的にはこの党に、まったく恨みはない。だから、□□党をツイッターで口汚く批判したとか、都議選で最大与党の〇〇党から恨みを買ったとかの話は、ひとまず置いておこう。

 

私が気になるのは、冒頭見出しにした、このポスターの文言である。果たして、「希望」は、政治によって「国」にあまねく「ゆきわたる(ゆきわたらせる)」ことが可能なのだろうか。この点がどうも、コンセプトとして気持ち悪いのだ。

 

ブリタニカ国際大百科事典を紐解いてみよう。「一般的には、望ましいものを獲得しようとする期待を伴った欲求、あるいはその獲得や出現の期待そのものを意味する。(以下、宗教における希望のことを述べているので略。)」。

 

希望とは、1「欲しい」と思うものが現れる→2「欲しい」という欲求を自覚する→3それを獲得しようとがんばる、というメカニズムなのだ。この定義に沿って考えた場合、やっぱり意味上の主語を「●●党による政治」にするのは難しいんじゃないか。

 

1については、100歩譲って、政治が経済の活性化などによって、人民に最大公約数的な「欲しい」ものを提供することが可能であるとしよう。しかし、「欲しい」と感じるのも獲得のため努力するのも、しょせんは個人のマターである。

 

つまり、各人が何かを獲得するためにもがくプロセスそのものが、「希望」なのだ。お上が、他人が、これを操作できるというのは、考え違いも甚だしい。希望は、選挙公約のようにばらまけるものではないんだよ。