このたび、コロナ引きこもり期間中の「7日間ブックカバーチャレンジ」で、バトンを渡された。20歳ほど年下の友人のよしこさんからである。が、グズグズするうちに、自粛期間が終わってしまった。次への引き継ぎは諦めて、渡されたバトンそのものを、しげしげと眺めてみようと思い立ったわけである。
本は『日本教の社会学』で、初版は1981年。著述ではなく、対談だ。一人は、一世を風靡した『日本人とユダヤ人』の著者イザヤ・ベンダサンこと、山本七平氏、もう一人は、小室直樹氏である。小室氏については、数学者だったかなという認識程度(間違いではなかったが)であった。あらためて、よしこさんのアンテナの広さに頭が下がる。
中身は、太平洋戦争時の日本軍の意思決定プロセスをもとに、日本人と日本社会の本質を鋭く考察したものである。キーワードは「日本教」「空気」「実体語と空体語」など。碩学な二人による、口語と文語のちょうど真ん中をねらった70年代的文体で、濃密につづられている。よしこさん曰く「言文一致を試みた頃の滑らかさ」だ。
読後は、2つの意味でしんどくなった。
ひとつは、当時の‘空気’を知っている者ならではの、トラウマである。とにかく日本人特異論や日本社会独自論が、世上で横行していた時代だ。多くは「自虐史観」である。それらは教材として、学校教育にも頻繁に登場した。子ども心にウンザリした私は「日本人という普遍の属性を、どうせぇちゅうんじゃ」と内心毒づいていた。一流の評論であっても、未だに食傷感はつきまとう。
もうひとつは、21世紀も20年過ぎても、日本教はゆるぎなくシステムとして作動し続けている事実に、あらためて戦慄したからだ。醸し出される「空気」は、未だに忖度や自粛警察などの超常現象を生んでいる。一方で、コロナ第一波の死亡者の少なさは「場に従う」という日本教のプリンシパルが、おそらくプラスに働いたことによる。古代より幾たびか日本社会を襲った疫病の流行が、この行動様式をつくったのかもしれないとも思った。
場に従うことだけが、不変原則である日本教システム。全くのところ、これから「どうせぇちゅうんじゃ」。バブル期に新人類などと取りざたされた自分だが、自立、自律に向けての社会の変質に、全く貢献できていない。単なる変人のまま、なす術なく立ち尽くしているような気がする。