ゴールデンウイークのすぐ後にひかえるビックイベント、母の日。そう「母業」は、世間で最もブラックな仕事のひとつだ。
妊娠出産にミルクやりからおむつ替え、弁当づくりにベルマークはり、こどもの送り迎えに近所の付き合い、自分の飯は立って食う。一日平均4時間超、深夜・早朝手当どころか傷病休暇すらもらえぬこの激務。少子化が進むのも無理はない。
そのような母の恩は、海よりも深いとしるべし、という教育の一環だったのだろう。昭和40~50年代になるのか、幼稚園から小学生低学年まで、母の日の前後の図工の時間に、ティッシュペーパーでカーネーションを作らされた記憶がある。
先生から、ピンクのティッシュを半分に切って重ねたものをわたされる。それをもらったら、まず一センチ幅ぐらいのじゃばらに折る。そのタテ長のまんなかをゴムでとめ、扇を広げる要領で円形にする。そののち、じゃばらの薄い1枚をひとつづつほぐして立て、花の形にする。さいごに茎とおぼしき、はりがね状のみどりの物体と合体させる。カーネーションのできあがり。
単純作業だが、私をはじめ、どんくさい子どもには、ハードルが高かった。ゴムの位置を左右対称にしなかったために、いびつな花形になったり、じゃばらほぐしに失敗して、紙をボロボロにしてしまったり。もういちど、ティッシュをもらうはめになるのが、常だった。
このように、ピンクのティッシュと格闘するクラスのなかにあって、かならず1、2名、白い花を作っている子どもがいた。お母さんをなくした子である。先生から、ほかとは別に白いティッシュをわたされるのだ。
たしかに、亡き母にささげるのは白いカーネーションが、慣習ではある。が、いきなり白ティッシュをわたされた子どもの気持ちやいかに。その配慮のなさが、いかにも昭和的であった。
だが、このぐらいでひるんでは、学校でサバイバルできない。小1の時になかよしだったサカシタ君が、ご両親の離婚がきまったときのこと。朝礼で先生の横にひきだされ、クラス全員を前にこう宣言されたのである。
「サカシタ君のおうちでは、お父さんがいなくなったから、●●に名前が変わりました。みなさん、今日から●●君と呼んであげてください」。
こうした姓変更のおひろめも、ごくフツーの光景であった。なんとデリカシーのない、昭和という時代よ。『めでたさも、中ぐらいなり 昭和の日』。黒歴史を知るタハラは、強くそう思うのであった。