年齢という呪縛

若いころから、老け伝説には事欠かないタハラだった。

 

上級生と間違われるのはもちろんのこと、合コンで敬語を使われる、海外では、うやうやしく「マダム」と呼ばれる。小づくりで目立たない東洋人なのに、おもいっきり年上にみられることが多かった。実年齢が見かけに追いついてきた昨今、ようやくこの種のストレスから解放されてきている。

 

コミュニケーションを決定する要素に「性別」「年齢」「職業」「社会的地位」などがある。その中で、日本語では特に「年齢」の果たす役割が大きいといわれている。よほどのことがない限り、大人が子どもに敬語を使うことがないのはそのためである。

 

ただ、こうした価値観の影響か、この国全体が年齢にこだわりすぎているのは気になる点だ。特にマスコミは極端だ。たとえば新聞や雑誌の記事で、( )つきでいちいち年齢を記載しているのは、自分の知る限り日本だけだ。

 

 女子アナ(キャスター)の「30歳定年」もそうだ。若い美人が画面に登場するのは、私とてうれしい。だが、キャリアこれからというときに出番が少なくなるのは、あまりにも残念だ。昭和の死語「職場の花」をおもいだしてしまう。

 

ちなみに世界に目を転じると、ニュース番組で美女が侍るスタイルを見かけるのは、日中韓(とたまにロシア)ぐらいである。これらは、男女間の格差が極端であるといわれる国々だ※。ほかのアジア諸国、欧米などでは性別年齢容姿、実に様々な人がキャスターやレポーターを務めている。

 

そして、若さ礼賛のあまり、なんでもかんでも「老害」という風潮もいただけない。よどんだ澱のように世の流れをせき止めるご老体はいる。だがこれは、あくまでもご本人と取り巻きの品性の問題。選挙などでも、猫も杓子もフレッシュさばかりアピールするのをみると、未熟者を公言しているような違和感を覚える。

 

年齢は、あくまでも個人の属性の一つ。あまりこだわると、たいせつなことを見失ってしまうとおもってるのだが、みなさんはどうだろうか。

 

※政治、経済、健康、教育の男女格差について世界経済フォーラム2023が調査した146か国のうち、韓国99位、中国102位、日本125位(ロシアは対象外)。