耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、以て万世のために太平を開かんと欲す

あの敗戦から79年、また8月15日がやってきた。

 

連合国からの降伏要求(ポツダム宣言)受諾を決定した日が1945年8月10日。その後紆余曲折ありつつも、国民への敗戦メッセージ原稿を天皇の肉声で録音したのは14日深夜。その翌日の正午、これを全国民にラジオで放送したものが「玉音放送」だ。

 

字数にして約1200字、朗読は4分半に渡る。『朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セント欲シ茲二忠良ナル爾臣民二告グ 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ・・・』

 

「敗北」「降伏」はもちろん「戦争が終わります」という直接的な表現は一切ない。当時ラジオを聞いた元少年少女らも、電波状態の悪さもあり「さっぱり理解できなかった」「大人たちが一斉にすすり泣く雰囲気で状況を察した」と口をそろえる。

 

日本軍の連戦連勝が報じられていたにも関わらず、なぜ当時の大人たちは、婉曲話法そのものの敗戦メッセージですすり泣けた(すぐに事情が飲み込めた)のか。ちなみに、戦後77年目にして生まれたチャットGTP-4君は、玉音放送の内容を正確に読み解くことができた。

 

「昭和天皇は、日本政府が米英中ソの4国に対して共同宣言を受け入れることを通告したと述べています。・・・戦争の継続は日本民族の滅亡と人類文明の破壊を招くとして、戦争終結を決断しました。また、同盟国や戦死者、その遺族、戦傷者への深い憂慮を示し、国民には困難に耐え、将来の平和と国の再建に尽力するよう訴えています」

 

この「戦争終結」に対応する原文は「以て万世のために太平を開かんと欲す」、直訳すると”今後のために平和を求める”。かの有名な「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」のくだりだ。戦争終結とはよく意訳したものだ、とGTP-4をほめた。すると本人曰く、前半の「其ノ共同宣言ヲ受託」=ポツダム宣言受諾=降伏であることを知っていたからこそ、なんとかこの部分が解読できたという。

 

あらためて、この時代の大人の読解力に脱帽する。同時に「戦争終結」は、国土を焼かれ、食うや食わずの生活の中で、無意識下では待ちに待った言葉だったから、すぐに理解できたのかもしれないという気もする。もちろん、意識に上らせることすらはばかられる思いだっただろうけれど。